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  2. 善正寺の歴史

安芸の真宗寺院として

善正寺は広島市中区寺町に位置し 浄土真宗本願寺派に所属する寺院です
現住職と門信徒の皆様方により 令和2年には新本堂が完成しました
先行きの見えない世の中において 多くの人の心のよりどころとなり
開かれたお寺を目指しています

由緒

寺町移転前の歴史

善正寺は元々「高見山慶蔵院宝成寺」という真言宗の寺院で、佐伯郡上小深川村(現:五日市町上小深川)にありました。
寬正3年3月(1462年)、俊宏が住職の時代に真言宗から浄土真宗に改宗し「慶蔵坊」と名を変えた後、文明年間(1469年~1486年)に佐伯郡利松村鳴渓(現:五日市町石内)へ移転しました。現在の山号である「鳴溪山」 はここに由来します。
かつての名残は現在も旧地に残されており、五日市町上小深川には宝成寺の高見薬師堂と記念碑が、五日市町石内には慶蔵坊の記念碑が、地元の人々によって立派に保存されています。

寺町移転後の歴史

佐伯郡利松村鳴渓に移転して約百年余り後、毛利輝元が広島城を築城し、城下の町割りをしたとき、政治的な理由から安芸国の旧領主・武田氏の菩提寺である「仏護寺」(現:広島別院)を復興し、当時勢力を誇った十二坊に数々の特権や待遇を与え仏護寺共々、城下の一所に集める政策をとりました。その十二坊のひとつであった慶蔵坊は「善正寺」と名を改め、現在の寺町に寺地を賜わります。
善正寺と名を改め以後約400年間、旧広島市はもとより多方面にご門徒をもち、安芸の真宗寺院として存続してまいりましたが、昭和20年8月6日、原子爆弾により当時の住職を失い、伽藍は全焼壊滅、ご門徒も四散し存亡の危機を迎えました。
そして戦後、当時の坊守や先代の住職坊守を中心としてご門徒共々復興に力をそそぎ、庫裡・本堂が再建され、現在にいたる礎が築かれました。

善正寺あれこれ

【寺紋】
善正寺の寺紋には少し特殊な由来があります。これは中川久留子という中川家の家紋で、「クルス」とは即ち「クロス(十字架)」を意味します。中川家は中川清秀を初代とする、織田信長傘下のキリシタン大名(摂津茨木)だったのです。
そしてこの紋は元々、荒木村重傘下のキリシタン大名、和田惟政の定紋でありましたが、彼が荒木村重について織田信長に反乱した際に、中川清秀がかつての盟友であった和田惟政を討ち、その名を惜しんで、クルスの紋を中川家の定紋にしたと伝えられています。
中川家はその後、明治維新まで、大分県竹田市(岡城)に於いて七万四千石の大名として存続しました。
代々の言い伝えでは、江戸時代初期に中川家縁の者が善正寺に入寺したことには間違いありませんが、その名前・理由には諸説があり特定することができていません。

【善正寺歴代住職】
 開 基 慶蔵院釋俊宏
 第二世 宝成院釋寛應
 第三世 永光院釋願宏
 第四世 會明院釋願永
 第五世 願正院釋円白
 第六世 性海院釋白空
 第七世 宝樹院釋春海
 第八世 宝厳院釋霊譚
 第九世 円成院釋幡龍
 第十世 ●露院釋鐘道
第十一世 弘宣院釋宝遵
第十二世 真如院釋叡肇
第十三世 梵音院釋僧鳳
第十四世 無双院釋義峰
第十五世 宣暢院釋義澄
第十六世 浄明院釋文遊
 当 代 釋元慧